LUCK MOTORCYCLES
杉原雅之 Masayuki Sugihara
INTERVIEW
November 17th, 2021
1990年代初頭。ファッションを通じてアメリカに憧れ、封切られた『ハーレーダビッドソン&マルボロマン』を映画館で見てハーレーの魅力に取り憑かれた若者は、情熱をたぎらせカスタム業界へと飛び込んだ。一筋縄では行かないめくるめく日々をがむしゃらに駆け抜け、いつしか気が付けばその名は世界に広がっていた。
杉原雅之、京都ラックモーターサイクルズ代表。カスタムショーに新作を持ち込めばアワード常勝。我が国のカスタムシーンの上層に位置する豪者と評して異を唱える者はまずいないだろう。第一線で活躍し続けるその背中を追う若手は多い。
ミリ単位の調整の積み重ねで作り上げられるチョッパーは、ナロー&コンパクトという言葉では片付けられない唯一無二の輝きを放つ。加えて各部に奢られる独創的なディテイルワークを見れば、国内だけでは収まらない勇名もなんら不思議はない。
そんな杉原さんのルーツを紐解き、その視線が今どこに向けられているかに迫りたい。
(写真・文/馬場啓介)
情熱のほこ先を求めて
飛び込んだハーレー業界
ー 杉原さんこの業界はだいぶ長いと思いますけど、最初のとっかかりは?
■ それまで色々やってたけど、僕がショベル買うた京都のジェムってショップに22歳で入社したのが始めやな。子供ができて結婚するってなって、自分がこの先長く続けていける仕事にちゃんと就かなアカンって思って。
ー それまでバイクをいじった経験は?
■ 自分のをちょっとやってたくらいやから完全に見習いで営業から。メカなんかは店閉めてから工場で教えてもらいながらやった。最初は当然お客さんのバイクは触らしてもらわれへんから、自分のショベルをバラして組んでみたりとか。
ー そのジェムではどれくらい働いてたんです?
■ 正味2年弱くらい。そっからジェムがフェニックス(※S&Sエンジンを積んだコンプリートハーレー)をやるのにアメリカで会社を立ち上げて工場を作るってのがあったんで「アメリカ行かしてください」言うて、家族連れてアメリカや。そんときにチカさんも一緒に行ってん。
ー 昔アメリカのテレビ番組にも出てたあのChica Custom Cyclesですよね? 元々ジェムの人なんですか?
■ いや、2階がジェムで、1階の工場をチカさんが借りててん。ジェムは元々工場がなくて、下請けとしてチカさんに修理とか車検とかをお願いしてたんや。だから僕が教えてもらってたのもチカさんとか、そこのスタッフの人。
普通にクルマが盗まれる
憧れのアメリカでの新生活
ー ふたり英語も喋れずアメリカに渡り?
■ せや、まぁ英語は会社が事務兼通訳の人を雇ってくれてたけど。で、チカさんは半年くらいで辞めてもうて、独立しはって今に至るねんか。
ー いきなりひとりになって。
■ たまにジェムから出向で手伝いに来てくれてたけど、ほぼひとりで1ヶ月で6台とか7台とか作ってたな。基本骨格は一緒で、作る部品もジグがあるから流れ作業みたいなモンではあったけどね。そんな期間が2年くらい続いたかな。
ー フェニックスってどこにあったんですか?
■ LAのサウスエルモンテってメキシコ人しか住んでない町。工場地帯やねんけど治安悪くて車上荒らしもバンバンされたわ。嫁さんがクルマで職場来て、ちょっと話してて外出たらもうクルマありませんってこともあったしな(笑)。そんときは何マイルか先に乗り捨ててあったけど。
『自分のバイク』を
ビルドしたいという思い
ー イチからバイクを作る技術はそこで修得したわけですね。
■ せやね、溶接から何から自分でやらなアカンかったから。でも一通りできるようになると人間やっぱり欲が出るやん。自分でクリエイトしたくなって、社長に「今まで通り決められた仕事はするから、例えば2ヶ月に1台でも空いた時間で自分が好きなバイクを作りたい」って相談して。
ー ノルマは達成した上でのプラスアルファということですね。
■ せやけど「その時間があるんやったらオーダーのあるバイクを1台でも2台でも多く作ってくれ」って言われて。それで「ここにおってもずっとコレしか出来へんなぁ」って思って。
ー そう思い始めると葛藤しかないですね。
■ で、辞めさしてもらって。ビザがまだ3年くらい残ってたから、ちょっと古着の買い付けとかしてたんよね。日本で第二次古着ブームが来てて。でも流行追いかけんのもしんどくて(笑)。「どうしよかなぁ」思てたらチカさんから連絡が来て。
ー お、渡りに舟。
■ 「こっちも軌道に乗ってきたから手伝わへんか?」って言うてくれて。日本のショップに卸すバイクを作ったりで忙しくなってたんよね。
ただひたすら没頭した
バイクビルドのChica時代
ー その頃は忙しかったですか?
■ 子供を保育園に送ってだいたい8時過ぎに店入って、毎日終わるのが夜の1時2時みたいな生活やったけど、それが全然苦にならへんくて。経営は自分とちゃうからお金のことは考えんで良くて、バイクの作業に没頭できる。ただただずっとバイク作ってられるんが楽しくてしょうがなかったわ。そこで今の基礎を確立させてもらった感じやな。
ー じゃあラックの名前は付いてなくても、杉原さんが作ったバイクが日本にも結構な台数あるわけですね。
■ あると思うで(笑)。相当作ったもん。Denvers Choppersのモンドが仲良くしてくれてたけど「マサ、お前は休まないといつか死ぬぞ」って(笑)。
本場のチョッパーシーンを
肌で感じ取った貴重な経験
ー その頃のアメリカってニュースクール系カスタム全盛期くらいですか?
■ ジェシー・ジェイムス(※2000年代に一世を風靡した世界的カスタムビルダー)がディスカバリー(※人気テレビ番組)でドーンって来るちょっと前やね。ジェシーはオールドスクールの流れをハイテクでやってたから、僕なんかが鉄曲げて作るようなモンをビレットでやったりして。そのクオリティの差を見せつけられた感はあったな。
ー 日本に帰ってきてから作るバイクにも、当時アメリカで見た物の影響ってあります?
■ やっぱそれはあるな。’90年代に見てたモンとかってビレット系とかハイテク系が多かったけど、見せる綺麗さって言うんかな。例えばブレーキの処理とかパイピングとか、細かい部分の見せ方っていうのは今に通じるモンもあったし。
ー 一方で昔ながらのバイカーもまだいましたよね?
■ ワンパーセンターのほとんどはもう走るときはEVOのダイナとかツアラーやったけど「まだ別にチョッパーも持ってますよ」みたいな時代やね。古参メンバーが亡くなったりとかでそういうチョッパーが売りに出ることもあって、大概は仲間内で話が付いちゃうし見る機会なんかないんやけど、ライアン・グロスマン(※米国チョッパーシーンの重鎮)はそういうとこと太いパイプがあるからショーにも凄いの持って来たりしてたわ。
ー 見れるだけで貴重な経験ですね。
■ イージーライダースのショーとかに乗って来てる人もおったりしたよ。やっぱりすっごいカッコいいのよ。なんてことないチョッパーやねんけどね。
ー ニュースクールとアウトローチョッパーの両方を間近で見て。
■ 今でこそサバイバーって言葉があるけど、そういうバイクが普通に走ってるのも見れてたし。過去の物、現在の物ってのが当たり前に融合してた時代やった。これが普通ってのがなかったから、何でもありな時代やったわ。それを現地で見て来れたってのは大きい。
精神的にキツかった
帰国してからの開店当初
ー ではチカさんのとこを辞めて、日本に帰って来てラック開店ですか?
■ そう、チカさんとこに3年くらいおって、ビザも切れるし2000年に帰って来た。29歳やったな。帰って来て、半年も経たんとラックをオープンしたわ。
ー キャリアの中でいっちゃんしんどかったんっていつですか?
■ やっぱ自分で店やり始めた当初やな。精神的なしんどさがやっぱキツいやん? 最初の頃は仕事も全然なくて、パチンコ行ったりしてたもん。
ー 営業時間中やのに(笑)。
■ もう閉めて、誰も来おへんし(笑)。そもそも誰も知らんし、ウチの店なんか(笑)。「俺なんしてんのやろ」って思いながら。
ー 焦りとかありましたよね?
■ あるよあるよ! でもホンマにやることなかったから(笑)。せやけど、そもそも仕事してへんから家賃さえ払えればなんとかなってたんよね。パーツも買うてへんし外注にも頼んでへんしで支払いがなくて。あー、せやから今思えば仕事あるのにお金回ってないときの方がしんどかったわ。
ー それは意識的に改善していったんですか?
■ そう。結局お金回すのに「これをいついつまでに仕上げたらお金になる」とか考えてたらええ仕事なんか絶対出来へん。どっかで線引いて立て直さなその状況がずっと続くから。
自分を育ててくれた
業界への感謝の気持ち
ー 仕事の質を上げるためにも、経営もしっかりすると。
■ 今はベース車両の在庫も確保してるし、中古車の在庫も持てるようになった。たまに同業から「ベース車両なんかない?」って聞かれたら譲ってあげることもあるしね。後は、お金ない若いビルダーの子にバイク貸してあげたりも出来るようになったな。
ー バイクを貸してあげる?
■ 「ロッドショーにエントリーしたいけどバイクがない!」とかね。そんなん話にならんからベース車に一台貸してあげたり(笑)。
ー もしかして、業界に貢献しようって気持ちがあります?
■ あるよ、めちゃくちゃある! 自分が20年やって来れたのはお客さんがおったからっていうのはもちろんあるけど、やっぱりしんどいときに何かしら周りに助けてもらったってこともあったから、金銭的にしろ精神的にしろ。色んな出会いがあって、今自分がこうしていられるっていうのは感じてるで。
ー それを今度は自分が返していく番だと。
■ 綺麗事っちゃ綺麗事やけど、そういうことやね。でも、それがまた回り回って自分に返って来る気がしてて、結局は自分が可愛いねん。「自分に返ってこいよー」思いながらやってんねん(笑)。
細部の作り込みの前に
カスタムはまずバランスありき
ー カスタムするときに特に注意していることってありますか?
■ なんやろな、奇をてらわないことかな。長く乗ってほしいってのもあるし、キテレツなバイクって絶対飽きるやん。『自分のスタイル』って言うんかは分からへんけど、ずっとやって来た芯の部分は出来るだけ変えへん。お客さんが10年15年乗ってヤレたときに「ショーバイクでもここまで乗ったら元取れたよね」って思ってもらいたいし。
ー ラックを始めた当初から方向性は変わってないですか?
■ 徐々にやってる内容とかは変わっては来てるけど、自分が乗りたいモンを作ってるってのは変わらへんな。その中でも20年前とか10年前と今の自分とでは技術的なとこで上達はしてるし、それが1年前2年前でもまた違うしね。
ー 常に進化し続けてるわけですね。
■ 進化なんかは知らんけど(笑)、作ってても新しいことにチャレンジしてる方が楽しいからね。
ー 杉原さん、ディテイルへのこだわりが凄いですよね。
■ せやね。でもそれよりもバランスが一番。パッと見たときのバイクのシルエットには徹底的にこだわるね。フレームのラインとか、ネック角とか。
ー 色んな物のマウント位置なんかも。
■ そう、それでバイクのバランスって決まるし、細部の作り込みはそっから先の話やから。遠目で見たときに気を引くバイクって、やっぱり均整の取れたバイクやん。めちゃくちゃディテイル凝ってるけどバランス悪いバイクって目が行かへん。
ー まず遠目に興味持ってもらないと、ディテイルまで見てもらえないですもんね。
■ 隙のない物はもちろん作らなアカンけど、まず人の目に止まることが大前提やからね。ショーでもバランス取れたバイクが結局一番目立つんよ。
ー 実際に手を動かしてる時間だけじゃなく、悩んでる時間も多いですか?
■ めちゃくちゃあるよ。考えて半日以上終わることもあるし、作ってみたけど「なんかちゃうな」ってやり直すこともあるし。
あらゆる物を取り入れ
時代を超えるバイクを
ー ディテイルをワンメイクするときにイメージする物とかってあるんですか?
■ 最近はアンティークの家具とか結構見るな。古い椅子の脚の加工の仕方とか、どうやって溝を入れてるかとか。嫁さんの買い物に付いて服屋とか行っても、什器にばっか目が行くもんね。
ー 世の中、イメージソースに溢れていると。
■ 色んなとこにデザインのヒントが隠されてる。バイク雑誌見たりバイク関係のSNS見たりして人の作ったヤツを模倣するんじゃなくて、もっと自分でインスピレーション感じて取り入れられるモンってそこら中にある。僕かて自分の引き出しはそんなないからね(笑)。
ー 今後、どんなバイクを作っていきたいとかあります?
■ 「後世でサバイバーになるバイク」とは言わへんけど、僕が死んだ後に、例えばアメリカで言うたらネスが作ったバイクみたいになったらええなぁって。そういうバイクを作っていきたいってのは前から思ってるかな。そのためには自分を変えへんことが大事。まぁカッコ良く言ってるだけで、これ以外できへんってのもあるけど(笑)。
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