(サムライ)タメさん 中島昌人のインタビュー

SAMURAI / CHOP SHOP

中島“タメさん” 昌人 Masato “TAME-san” Nakajima

September 12th, 2016

侍のタメさん。さかのぼること約50年前、カスタムバイクの黎明期から第一線で活動し続け、今もなお現役の、国内のリビングレジェンド的カスタムビルダーである。巷で大御所と呼ばれるビルダーもタメさんの前では頭が上がらない。しかしかといって、尊大に構えるようなことは微塵もなく、相手が誰であっても対等な立場で接するという姿勢を崩さない実に気さくな人である。

12歳から70歳になった現在までずっとバイクに触り続ける氏は、当然ながらこのカスタム業界の酸いも甘いも嚙み分けてきている。70年代初頭に起きた第一次チョッパーブームから何度もの繁栄と衰退を繰り返してきた姿を見てきているだけに、何気なく発する言葉には重みがあり、誰よりもこの業界を俯瞰して捉えられ、的を射た意見ができる存在なのだ。

タメさんはカスタムを『改造』と言い、バイクのことを『オートバイ』と呼ぶ。こうして単語のひとつひとつに歴史がにじみ出すのは、やはり刻んできた年輪の密度が違うからだろう。そんな氏は奥さんが営むパーツ販売の『チョップショップ』と共に、変わらず今日も、コーヒー代わりに酒をやりながらオートバイと向き合っている。

(サムライ)タメさん 中島昌人のインタビュー

12、3歳からオートバイを
いじくりまわしてた

ー タメさんはバイク屋を始めてどれぐらいになるんですか。
店の名前は何度も変えてるんだけど、改造で金をもらえるようになったのは1969年ですかね。47年前ぐらいかな。
ー そもそもバイク屋を始める前は。
そのまま。金にならないけどオートバイをいじくりまわしてた。60年ぐらいからだから12、3歳。昔はオートバイメーカーがいっぱいあったんですよ。20社ぐらいあったのかな。それで潰れたり全然人気が出ないとか、そういうのはムチャクチャ安いんです、ポンコツ値段で。
ー ポンコツ値段。想像もできないんですけど。
一番安かったのは500円だったかな。スズキの50のスポーツ。その頃ね、ラーメンが100円ぐらいだったかな。だからしょっちゅう買うんですよ。
二十歳までに自分の名前で登録した台数は100台以上。(※横で話を聞いていた奥さんが言う)
(サムライ)タメさん 中島昌人のインタビュー
ー 当時からバイク屋になること以外は頭になかったですか。
オートバイ屋になる頭もなかったですね。自然になってた。だから1回もどっかで働いたことないんですよ。
ー 12、3歳からバイクをいじってそのまま。
そうですね。
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戦闘機に興味を持ってから
オートバイにのめり込んだ

ー でも、戦後から時代が変わっていった当時といえば他にも楽しそうなことがいっぱいあったと思うんですが。
それはですね、今あるのかな、『丸(マル)』って雑誌知ってますか?
ー ごめんなさい、知らないです。
マルっていうのは要するに戦争ものの本なんです。それでまだ戦後、59年だと10何年しか経ってなくて(※奥さんが本を出してきて)、ああそうそう、こんなのばっかり見てて、結局戦闘機にすごく興味を持った。昔は模型って言ってもラジコンはあったんですけど、それは高くて買えないですね。だからワイヤーでやるユーコンってやつを自分で作るんです、飛行機を。
ー ああ、たこ揚げみたいに操作する。
そうですエンジン付きの。そのエンジンを買いに行ってからエンジンに興味を持ってですね、買えば当然ばらすから、それでオートバイのエンジンのほうがすげえんじゃないかって。そこからオートバイになったんですね。
ー 戦闘機に興味を持って自然と。
そうです、ええ。
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ー ちなみに戦闘機だと何が一番好きですか。
僕はね、雷電(ライデン)が好きだったんですよ。すごい乗り辛いらしいんですけど。あの、スマホはお持ちですか? それ見ると金かかりますか?
ー 大丈夫です大丈夫です。
では坂井三郎(サカイサブロウ)って見てもらえますか? この人はね、本当は日本一の撃墜王ではないんです。でも64機落としたという。これの実戦ものの『大空のサムライ』っていう本を読んで。
ー この方ですか?
こいつです、こいつです(※スマホの画面を指さして)。当時は好きだったんですけど。
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日本国憲法よりも
俺の方が兄貴なんですよ(笑)

ー 一番初めに手にしたバイクはなんですか?
日東バイクっていう1954年のもの。ペダルがついているやつなんですけど。近所のやつがほっぽいてたのを借りてずっと持ってたんです。
ー 近所というとタメさんの生まれ育ったところってどこなんです。
東京都文京区の西片ってとこです。東京大学のすぐ近くです。それで日東バイクなんかを自宅の庭で乗る練習をしてた。
ー お年が70歳ということですけど、西暦だと。
1947年の4月。日本国憲法の施工が5月3日だから俺のが兄貴のわけですよ(笑)。
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タメっていう名前の由来は
あっと驚くタメゴロウ~♪

ー ちなみに話は変わりますが、タメさんの『タメ』って本名ではないですよね。
ああ、全然違うんですよ。
ー それはどこから来てるんですか。
まあチョッパーを作るようになって、70年の頭にモーターサイクリスト(1951年創刊のオートバイ雑誌)でテストライダーをやってた小金井の金持ちの大久保力(リキ)さんっていうのがですね、オートバイだけのショーをやろうじゃないかって。それで初めてやったんだけど当時は改造車が無茶苦茶に叩かれて。
ー 無茶苦茶ですか。
もう、凄かったです。それでリキさんが始めて、第2回目にチョッパーを出したんだけど、その時に横浜の磯子ら辺の不良のガキどもがですね、『横浜シティチョッパーズ』っていう適当なクラブ名でチョッパーを出してたんですよ。もちろんすぐ仲良くなって、当時はハナ肇(ハジメ)ってご存知ですか?
ー はい、なんとなく。
そいつが『ゲバゲバ90分』って番組をやっていて、ヘアバンドして長髪で、♪あっと驚くタメゴロウ~♪ って。俺もおんなじ恰好をしてたからそれで横浜シティチョッパーズのやつらがタメさんタメさんって言いだした。
ー あっ、そういうことですか。
ええ(笑)。
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オートバイは絶対に改造
人と同じは嫌だった

ー 当時は改造するにも今みたいに情報が少ないわけですよね。どうしていたんですか。
アメリカの本を見てなんとか作るわけです。ちなみにスポーツスターも純正のスポーツスタータンクが付いた状態で手元にやって来るっていうのがなかった時代だから。
ー え?
ゴキタンで、ゴキブリタンクが付いていたんです。純正だと小さ過ぎてダメだろうってんで。まあ当時、日本には1、2台しか入ってねえんじゃねえかな。それにアルミリムじゃないですかあれ。アルミリムだと道があまりにも悪いからすぐ凹んじゃうってんで鉄で組み直して(笑)。鉄リムを入れてたんですよ、それぐらい道が悪かった。
ー 日本の道ですか!?
日本の道です。無茶苦茶ですよ昔は。
ー タメさんがそうやっていろんなオートバイを見てきた中で、やっぱりハーレーが一番ですか?
ハーレーはね、昔はそうじゃなかったんです。何故かというとオヤジ系しかなかったんですね。でもある時アイアンをアメリカから買ってきたやつがいてですね、それに乗ったらすごく良いじゃねえのって。
ー そのアイアンは何年ぐらいのです。
あれは70年ぐらいだったかな。
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ー 今もビッグツインよりアイアンの方が良いですか。
そうだな、アイアンが良いなあ。やっぱりアクセルを開けた時のフィーリングですかね。『ダダダダッ!』ていく感じの。その後にヤマハのロクハン(650)が出て、TXか。あれ乗ったらすごいアイアンに似てるからびっくりして(笑)、やっぱり研究してやがんなって。
ー (笑)。タメさん的にはオートバイに関してはカスタムというよりは修理やメンテですか。
いや、もう絶対に改造ですよ。改造しなきゃ乗る気がしない。なんでも改造しなきゃ嫌だ。人と同じは嫌だ(笑)。
ー (笑)。修理とかメンテは当たり前で改造が一番。
そうです。改造っていってもサイドカバー取っただけでも良い。人と同じじゃなけりゃ良いんです。絶対に人と同じは嫌だ。
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堀さんや佐藤さんなんかは
昔からやってる同期だよ

ー サムライの名前を付けたのはいつ頃なんです。
神奈川の綾瀬に越したときです。その前は『コスモポリタン』っていう名前で、その前の神奈川の葉山でやってたときは『ジローズ』。更にその前が『ダイダラボッチ』っていう富士山に腰かけて琵琶湖で足を洗うっていう伝説の巨人の名前を付けていた(笑)。最初は自分ちですね。
ー 綾瀬からだとサムライの名前で何年ぐらいですか。
20何年、85年からじゃないですかね。
ー タメさんと同期で現役の人って今ではかなり少ないですよね。
お客だったやつは大勢いますよ。同期だとコスモポリタン以降ならいるかなっていう。フリーダムの堀さんなんかもそうだし、あとデンの佐藤さんもそう。
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廃れた波を何度も見てるから
もう二度と経験したくない

ー タメさんが昔からずっとこの業界を見てきて、大きく変わったところってどの辺ですか。
あれがなくなったっていうのかな。同族意識っていうのか。要するに非合法のことしてる仲間っていう。なにしろ昔はバックミラー替えただけでも車検に通らないっていう。
ー そんなに厳しいんですか。
ええ。片っ端から白バイに捕まるんです。当時アイアンバロンっていうチョッパー屋が東京世田谷の駒沢にあったんですけど、そこなんて狙われてたから環八で白バイが待っているっていう。
ー 切符とかの制度は今と一緒なんですか。
いやいや、廃車ですよ廃車。
ー えっ!?
廃車。車は車検取れないってんで廃車です。
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ー 今の時代は恵まれ過ぎてるんですね。タメさんはずーっと現役でやられてます。やはりそこはこれからも。
そんな固いことではなく、他のことが出来んのですよ(笑)。もう極端な改造はしないし。改造が原因でオートバイが廃れてきた波を何回も見てきてるからやりたくないんです。廃れちゃうんですよ本当に。第1次チョッパーブームの時もたちまちオマワリにやられて。
ー 今とは警官のスタンスが全く違うんですね。
なにしろ白バイの練習場にハンドルを持って行ってテストするんですよ。そして運転し辛いからこれダメって。車検場でも例えば相模の車検場にハンドルを換えたものを持ってくじゃないですか。見た目はほとんど分からないのにそれでも「これは純正じゃない」って。詳し過ぎるから「なんでそんなこと知ってるんだ」って聞いたら俺もZ2に乗ってるって。だから分かるんですよ、これは違うって。絶対に通らせないんです。
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ー いつ頃の話ですか。
ええと、74、5年かな。販売店にしたって、雑誌に広告を載せて今でもブイブイやってるような店なんだけど、「改造車は乗らないで床の間に飾っておこう」って広告を載せたり。おまえどっちの味方なのって(笑)。みんなそうだったんです、車検は取れないって。
ー 当時はマナーが悪かったり事故発生率も高かったから何かと目の敵にされてたんですね。ではタメさん、これからもマイペースで作業をやっていくと。
そう、まあ死ぬまでだらだらってやつかな(笑)。

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FAX 044-277-3908
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