CHERRY’S COMPANY
黒須嘉一郎 Kaichiro Kurosu
INTERVIEW
April 6th, 2017
世界最大規模のカスタムショー、横浜HOT ROD CUSTOM SHOWで前人未踏のアワード3連覇を達成したショップである。そして、現在その人気は世界中に波及し、海外のカスタムショーからもゲストとして頻繁に招聘。アメリカ、フランス、ドイツを始め、インド、インドネシア、マレーシア、タイといったアジア圏に至るまで、正に引っ張りだこである。
そんな代表の黒須さんは、埼玉県川越市で生まれ育ち、10代の頃は当時全盛を極めたグランプリレース、GP500に没頭。その後は、デザイン学校に進んでデザイン事務所に就職するもわずか1年で退職し、そのままバイクへの想いを断ち切れず22の時にH-Dディーラーの門を叩いて修業を積み、計2軒のショップを経て30歳で同店をスタートさせた。
以来、数々のカスタムショーでその存在を知らしめ、近年は本流のハーレーのみならずBMW Motorradのカスタムプロジェクトにも参画。メーカーの枠を超えてクリエイティブなマシンを世界に発信し続けている。
車の走り屋から
チョッパー乗りに
ー では、まず黒須さんの10代の頃から話を聞かせてもらえますか?
■ CBRとかいろいろ乗ったけど18でクルマの免許取って、車の方に行っちゃいましたね。KP61のスターレット買って峠行ってました。
ー 走り屋だったわけですか。
■ ずっと峠行ったり、今度はカリーナのターボを買って首都高走ったりとかそういうのをやってたんだけど、ある時車で走った帰りに第三京浜の保土ヶ谷パーキングに寄ったらバイクが凄い盛り上がってたんですね。そしたら急に、「バイクやっぱ良いな」ってなったんですよね(笑)。ハタチぐらいだったかな。で、ちょうどアメリカンバイクも流行ってて、「じゃあアメリカン買おう」って買ったのがビラーゴ。まだ限定解除してなかったからそれでチョッパー作って。
デザイン事務所を辞めて
ハーレーディーラーへ
ー 自分でチョッパーを?
■ 自分で。でも結局物足りなくなって限定解除して、その頃はもうデザイン事務所に勤めてたんですね、デザイン学校に行ってたから。でも限定解除したらなんかそういう道に行きたくなっちゃったんでしょうね、無性に。それでデザイン事務所を辞めて横浜の丸富オートっていうディーラーに行ったんすよね。
ー いくつの時です?
■ 22ですね。丸富はなんだかんだと6年ぐらい居たのかな。で、結婚するみたいなことで地元の川越に戻ることになって丸富を辞めて、戻って来ても働かないといけないからとりあえず土木関係に行きましたね。いったん造園土木に行って、その次に勤めたのがピットイン樋口。埼玉の大宮のディーラーですね。
ー そこでハーレーショップ2軒目ですか。
■ そう、28の時。そこでお世話になって、モーリー(※STOOP MOTORCYCLES代表)とかとも知り合って。で、2年居たのかな、僕30歳のときに独立してるから。でまあ、モーリーもそのタイミングで一緒にやってくれるって話になったから、じゃあとりあえず一緒にやりましょうって(笑)。
年を越すのがやっと
最初はそんなもんだった
ー ショップを立ち上げた当初はどうでした?
■ まあとにかくひっそり始めたから、前のお店から客を引っ張るとかそういうのもせず。お客さんとかに、「僕店やるんです」とかひと言も言わずにいきなりボンと辞めて始めてるもんだからまあ客が来ないですよ(笑)。フフフフ(笑)。
ー 出たとこ勝負的な(笑)。
■ 誰も客が来ない(笑)。だってまったく無名のわけ分かんないやつが店を始めたところで、そんなとこに客は来てくんないから。だからとりあえずバイク屋さんていう形を作らないといけないから、店先にバイクを並べるために友達からバイクを借りたりしてた。
ー どうやって飯を食べたんです?
■ でまあ、実家戻るしかないって。実家で世話んなって、スクーターで1時間ぐらいかけて川越から杉並まで通ってましたね。で、ちょうどお店を始めた時が長女の出産と重なって、出産祝いを結構頂いてた。その出産祝いをほぼ食い潰した形ですね(笑)。
ー まあ黒須家の未来のために使ってるわけですから(笑)。
■ それが半年後ぐらいにはもう5000円ぐらいしか残ってなくて、「やべえな」ってなった時に友達の関係でバイクを作ってくれる人がいて、それでなんとなく年を越せた感じだったかなぁ。最初はそんなもんですよ(笑)。
自分のスタイルなんて
簡単に出来るわけがない
ー 当初チェリーズのカスタムスタイルは、グースネックのバイクがあったりロングフォークのチョッパーがあったりといろいろでしたけど、ある時を境に、『チェリーズスタイル』なるものを確立した感があります。黒須さん的に何か覚醒した感はあるんですか?
■ そう、結局みんなそうだと思うんですけど、自分のスタイルなんて最初出来るわけないんですよ。お金があれば良いけどお金も無いし、仕事でやっている以上ね。お客さんの要望を聞いてバイクを作らなきゃいけないわけだから、お客さんの色がどうしても色濃く出ちゃうんですよ最初の頃って。でもそれが10年経った時に、僕の友達が100パーお任せのオーダーをくれたんです、もう100パー。結局べース車から何から(笑)。
ー そこまでお任せ!?
■ そう(笑)、100パーオーダーもらった時に、俺がこんなんやりたいあんなんやりたいって言ってた物をいろいろやらせてもらったんですよね。で、ホットロッドショーにウチの10周年記念で出したら結構評価されたんですよ、いろいろショーも貰ったりとか。で、そこから自分のスタイルじゃないけど、自分が好きだなって物が生まれたかもしれないですね。
バックボーンにあるのは
GP500のレースの世界
ー それがセパハンを付けたカスタムバイクだったと言うと、やっぱりバックボーンはレーシング系ですか?
■ そう、僕が小学生の頃から元々好きだったのがGP500の世界だったから。
ー 片山敬済(たかずみ)が走っていた時代って言ってましたね。
■ そう、峠走ったり、元々バイク好きになったキッカケがグランプリレースなわけだし、まあ、時代的にもそうですよ。で、それが自分のスタイルになったのかもしれないけど、でも実際未だに自分のスタイルって良く分かってないです。
ー そういうもんなんですね。
■ そう、で、なるべくそういうのを作らないように。チョッパーも作るけど、スーパースポーツみたいなのもやるのね、みたいな。そういう中でも、「チェリーズが作ったんだこれ」みたいなのが皆の中で生まれれば、それが一番ベストなスタイルなんでしょうね。
BMのカスタムは
断ろうとしてた
ー BMWのカスタムを手掛けたりと、チェリーズの世界の幅がこれまでの枠を越えて広がっていってます。実際にオファーが来た時ってどうでした?
■ 超ネガティブですよ。
ー あっ(笑)。
■ いや、断ろうって(笑)。そんなにおっきい話だと思わなかったんですよ最初。そんな満足してもらえる物を作れる自信が無いと思って、断った方が良いんじゃないかなって。でも担当者に、ビルダーは4人いるんですって聞かされて、誰ですかって聞いたら富樫君(※HIDE MOTORCYCLE)と高嶺君(※BRAT STYLE)って。志朗君(※46WORKS)は直接的な知り合いではなかったし元々BMのビルダーだったからあれだったけど、富樫君と高嶺君の名前が出た時に、「でどういう反応だったんですか」って聞いたら快諾してくれたって。快諾したのかよって(笑)。
ー まさかの展開(笑)。
■ じゃあ俺がNOなんて言えないじゃねえかみたいな(笑)。じゃあやりますみたいな、ほんとじゃあやりますでしたよ(笑)。
サイケなテーマを持った
現代のチョッパー
ー では、去年の2016ホットロッドカスタムショーに出展した最新作の『LAZY HANK』に話を移しましょう。1983年FLHベースの1410ccのストローカー仕様ですね。
■ これはもう、とにかく乗りやすいと言うか、気軽に乗れるもの。でもお客さんのテーマがサイケで、見せてくれた写真がなんかこうサイケデリックなセブンティーズチョッパーだったんですよね。でも僕は70年代のチョッパーを焼き直してそのまんま持ってくのが好きじゃないから、結局そういうのが出来ないというか。
ー チェリーズらしい作り込みで。
■ そう、東京の中でも走れるテイストを持ったチョッパーを作ろうと。でも、変なギミックを入れずに定番な中で作ろうと思ったんですね。だから今回は凄いというよりもカッコ良いバイクが作れたんじゃないかなって。
ー 外装のシートメタルはすべてハンドメイドですね。
■ まあそうっすね。今回のやつは、「チェリーズカンパニーこういうのも作るんだ」っていうところもありましたね。でもこれは僕の中でやってみたかったことで、とにかく決まったスタイルを持つのが嫌だったし、幅の広い自分みたいなのも出したかったし。でも一番苦労したのはサイケデリックですよ。もうそのカルチャーなんていうのは、僕みたいなまとまな頭の持ち主にはちょっと(笑)。
ー ぶっとんでなんぼなところが(笑)。
■ そのサイケを自分なりに理解したり解釈するのが難しかったですね。どうしてもカチッとした物になっちゃうというか。だからまあ言ってみれば、サイケデリックなテーマを持った現代のチョッパーですよね。タイムマシンで昔から持って来たんですっていう物じゃなくて。
世界はもっと
凄いことが起きてる
ー 最近は海外のショーにも頻繁に呼ばれて忙しそうです。世界を見て、日本と海外の違いで大きな所ってどこです? テレビでよくやってる日本の良い所じゃなくて、悪い所が聞きたいんですけど?
■ なるほど。逆に僕が感じたのは日本の良いところばかりだったからなあ。でもまあ悪い面を言えば、日本の人はやっぱちょっと奢ってるところもあって。みんな周りが、日本のカスタムは凄いと、日本が世界からもの凄く注目されてると。まあそうなのかもしんないけどリップサービスももちろんあって、世界はもっと凄いことが起きてるなとは思ったすね。もう日本の中だけで見てると、なんか段々またつまんないバイクばっかりになっちゃうなあっていう。ちょっとまずいなっていうのはありますけどね。
アンテナを張っとけば
必ず引っ掛かる
ー これまでチェリーズをやってきた中で、辛い思い出で真っ先に思い浮かぶのは?
■ 肉体的な面は常に辛いですよね(笑)。特に年を取れば取るほど(笑)。
ー では精神的には?
■ まあなんだろう、結局幸せなんでしょうね。好きで始めてそれが仕事になって、趣味とは思ってないけど仕事と自分の時間っていうものの区別を付けてないですよね。やっぱ仕事は仕事で自分の時間と区別を付けるじゃないですか普通。自分の時間は自分の好きなことをやろうと。でもそういう区別がないからココにずっといても苦じゃないです。
ー やっぱり。では、黒須さんのカスタム技術ってどうやって身に付けたんです?
■ もう時間を使うしかないんじゃないですかね。初めてのことだし教えてくれる人もいないわけだから。で、僕が始めた頃は今ほどインターネットが普及してないから情報も少ないし、調べるって言ったら本ですよ、本。欲しい情報を手に入れるまでの時間が圧倒的にかかったんですよ。
ー 確かに体を動かして調べるしか方法が無かった。
■ だから僕若い頃から欲しい情報が出来たらもの凄くアンテナ張っとくんですよ。そうすると必ず引っ掛かる。ずーっとアンテナを張っとけば必ず自分の知りたかったことに引っ掛かるっていう信念があって、それはもう自分の中で絶対的なものなんです。絶対そう。でもそれが凄い時間が掛かる(笑)。だからその辺は貪欲にやってたかもしれないですよ。
ベストをいま
生きている
ー 実作業のテクニックの向上の方はどうです?
■ は、もうやってみる。うん、やってみる。
ー 特別なことはなく?
■ もちろん失敗もあるし。でも自分で言うのもなんだけど、きっとこういうことをやったらこういう風になってこういう結果になる、みたいなことを割と想像できる頭を持ってるんだと思いますよ僕は。こうしたら出来るんじゃね、って思ったことが結構上手くいくから。そういうことを考える能力はあるのかな。
ー まずいな、天才肌か(笑)。
■ フフフフ(笑)。だから我流で物作りをやってけてるのかもしれないし。
ー ちなみに、カスタムビルダーじゃない人生だったら?
■ なんだろうなあ、考えたこともないですね。これしかないとも思ってないけど、結局、現実的な話をすれば家族がいるわけだし、多分なんでも仕事はするしちゃんとやれると僕は思うんですよ。これまでもしてきたし。だからまあ、カスタムビルダーじゃなかったらなんでも良いと思うんですけど、でも自分の中でのベストをいま生きてるんじゃないかなとは思ってます。
CHERRY’S COMPANY